意識の違いが理解の違い

講談社「イブニング」に連載中「ZOO KEEPER」の5巻に、展示されているタヌキに菓子を与える親子に、えさを与えないよう説得するシーンがある。

ZOOKEEPER(5) (イブニングKC)

ZOOKEEPER(5) (イブニングKC)

飼育員が、動物は目の前にあればどんどん食べ物を食べてしまうから、彼らの健康のためにも余計な餌を与えないで欲しいと言っても母親は「ローカロリーなんだから大丈夫でしょう」と受け入れず、与えた菓子に使われているキシリトールががタヌキにとって毒でしかないと言えば「今日はたまたまそれを与えてただけ」と返されてしまう。
結局、「タヌキは餌ごと指を噛み切るくらい出来る」と言われ、ようやく母親は「餌を与えてはいけない」事を受け入れる。


飼育員は「『危ない』まで言わずに説得したかった」と言いながら、こうも言う。


「『タヌキが死んでしまう』より『指を喰い切られる』の方が伝わるなら、そう言うしかない」



自転車の問題に限った話ではなく、啓蒙活動ってのはこの状況に似ているような気がする。
無灯火とか逆走とかブレーキ無しとか、まぁ他にも居なくなって欲しい自転車乗りは沢山居るが、彼らにそれを止めさせるには自分たちもこう言う判断をしなきゃいけないのかもしれない。
「ライトを点けろ」「逆走を止めろ」「ブレーキを付けろ」で理解してもらえるなら、多くの場合はわざわざ言う必要なんて無くて、むしろなぜ自分がそのようなことを言われたのか理解出来ない人に対して、その危険性をどう理解させるか、が問題なんだろう。



ところで、先日書いたように新しい自転車用ライトを付けたので1個余った。ここからアクションを起こせないか、計画中。実行に当たっては、まずは小道具の準備をせねば。具体的にどういうのを用意すればいいかなぁ。まだ固まらん。